山形市が生んだ三浦新七博士は東西両洋の国々それぞれの国民性に光をあて新しい世界史の領域を構想した歴史学者で、その遺稿集『東西文明史論考』は不朽の名著と呼ばれています。しかし、三浦博士の思想の根幹には、「何のための学問か」という問題が常に横たわっており、門下には「学問と実践」を兼備する幾多有為の人材を輩出しました。
新七は、明治10年6月12日、三浦新兵衛の四男として山形市旅籠町に生まれた。幼いころから優秀で、山形尋常中学校(現在の山形東高等学校)では、「飛び級」で進級し、通常6年で卒業するところ5年で、さらに首席で卒業したほどだった。南陽市出身で、後に大蔵大臣や日本銀行の総裁ともなった結城豊太郎とは、親友だった。
東京高等商業学校卒業後、母校で講師をしていた新七は、文部省から商学研究のため、ドイツ・イギリスへ3年間の留学を命ぜられた。ドイツのライプチヒ大学に入学し、ランプレヒト教授と出会った新七は、商業学を生んだ西洋文明の本質を追及しようと歴史学の世界へ進み、新しい世界史観を構想するため、留学は9年間にも及んだ。
帰国後、新七は、商業歴史科目担当の教授として、母校で教べんをとった。新七の幅広い知識生かした熱い講義は、いつしか各国の比較文明史へと発展してゆくのが常で、その斬新さから、新七の講義は非常に人気が高かったといわれている。その間、母校の国立大学への昇格にも力を注いでいる。
新七は、帰国後に、山形市の豪商であり、父の兄にあたる三浦権四郎家の跡取り養子となっている。同家の当主は、代々山形第八十一国立銀行(後の両羽銀行、現在の山形銀行)の頭取に就任し、山形金融界を指導しており、新七も、昭和2年3月、金融大恐慌が始まった際は、教授の職を辞して山形に戻り、両羽銀行の経営再建と地方金融の安定に渾身の力で取り組んだ。
その一方、山形県で初めて、本格的に地域史を研究する「山形県郷土研究会」を発足させ、会長として率先して活動すると同時に、多くの人材を育てた。その時集めた資料は、今も山形大学博物館に所蔵されている。
昭和10年、母校東京商科大学の学園騒動が深刻化していた。事態を収拾できるのは新七しかいないと期待が集まり、新七は、学長就任を決意する。学長就任式では、「大学は学ぶ所であると同時に人格完成の道場である」と大学復興を訴え、無事、騒動は収束した。一橋大学には、今も博士の胸像があり、その複製が三浦新七博士記念館にも展示されている。 新七は、事態収束の翌年、学長を退任した後も、日本銀行顧問や貴族院議員に就任する等各界で活躍し、昭和22年8月14日、70歳の時に東京都京橋区の癌研究所付属病院で亡くなっている。東京商科大学講堂で大学葬が営まれ、本葬は山形市の専称寺で執り行われた。遺骨は、山形市菩提寺見聞寺に埋葬されている。
1877 | 明治 10年 |
0歳 | 三浦新兵衛の四男として山形旅籠町(現相生町)に生まれる。 |
1895 | 明治 28年 |
18歳 | 山形県尋常中学校(現山形東高等学校)を卒業する。 |
1899 | 明治 32年 |
22歳 | 東京高等商業学校(現一橋大学)を卒業する。 |
1901 | 明治 34年 |
24歳 | 東京高等商業学校専攻部銀行科を卒業する。 |
1902 | 明治 35年 |
25歳 | 母校・東京高等商業学校の講師となる。 |
1903 | 明治 36年 |
26歳 | ドイツへ留学する。ライプチヒ大学に入学し、歴史学者のランプレヒト教授に師事する。 |
1905 | 明治 38年 |
28歳 | ミュンヘン大学に転学する。 |
1907 | 明治 40年 |
30歳 | ベルリン大学に転学した後、再びライプチヒ大学に転学する。 |
1910 | 明治 43年 |
33歳 | ランプレヒト教授の演習助手となる。 |
1911 | 明治 44年 |
34歳 | 東京高等商業学校の教授に就任する。 |
1912 | 明治 45年 |
35歳 | ドイツから帰国する。三浦権四郎の養子となり、その娘シゲと結婚する。 |
1920 | 大正 9年 |
43歳 | 東京高等商業学校の東京商科大学への昇格にともない、東京商科大学の教授に就任する。 |
1925 | 大正 14年 |
48歳 | 山形高等学校(現山形大学)の講師を嘱託される。 |
1927 | 昭和 2年 |
50歳 | 東京商科大学の教授を辞任して山形に戻り、両羽銀行(現山形銀行)の経営再建と地方金融の安定に取り組む。東京商科大学・京都帝国大学(現京都大学)の講師を嘱託される。 |
1928 | 昭和 3年 |
51歳 | 両羽銀行の常勤監査役に就任する。山形県郷土研究会を設立し、その会長となる。 |
1929 | 昭和 4年 |
52歳 | 両羽銀行の第九代頭取に就任する。 |
1932 | 昭和 7年 |
55歳 | 貴族院議員に選出される。 | 1935 | 昭和 10年 |
58歳 | 東京商科大学(現一橋大学)の学長に就任し、学園騒動の収束に尽力する。 |
1936 | 昭和 11年 |
59歳 | 東京商科大学の学長を辞任する。 |
1937 | 昭和 12年 |
60歳 | 東京商科大学の名誉教授となる。 |
1939 | 昭和 14年 |
62歳 | 日本銀行の顧問に就任する。貴族院議員に再選される。 |
1945 | 昭和 20年 |
68歳 | 日本銀行の参与に就任する。 |
1947 | 昭和 22年 |
70歳 | 癌研究所附属病院にて永眠する。 |
倫理学者。山形中学の先輩。ドイツ留学中は、学問の方法論などをめぐり、三浦の相談相手として議論し、かつ温かく激励した。34通の絵葉書には〈愚佛〉のペンネームを用いているものが多く、筆跡の美しいことも注目される。早大教授から京都帝大教授。学問的には社会学的倫理学の立場をとった。著作に『主観道徳学要旨』『国民道徳論』など。旧姓は石川。東京帝大卒。山形県出身。
教育学者。三浦の山形中学同窓生。同級親友に伊藤清蔵がいたが、二人は栂野(とがの)校長にあこがれ、校長の母校札幌農学校に転校するという離れ業をやってのける。吉田は教育学研究をこころざして東京帝大にすすみ、ドイツ留学を果たすが、ここで三浦・伊藤と再会し、あらためて親交を深める。かれはドイツ実践教育学を紹介して社会的教育学をとなえ、実証的教育学への道をひらいた。東京帝大教授。著作に『系統的教育学』『社会的教育学講義』など。山形県南陽市出身。
音楽教育家。ドイツ留学中、三浦にあてた絵葉書などからのびやかで闊達な人物であったことが窺われる。留学中の明治35年母校東京音楽学校(現東京芸大)教授。オルガン音楽の普及に努め、文部省唱歌編纂主任として「尋常小学唱歌」の選曲にあたった。日本教育音楽協会理事長。編著に『オルガン教則本』。山形県民歌「最上川」を作曲した。東京出身。
農学者、牧場経営者。山形中学の親友吉田熊次と語らって札幌農学校に移り、やがて同校助教授となる。明治36年度文部省留学生に選ばれるが、約30名いた顔ぶれの中には三浦新七の名前もあった。出発は別々の船であったが、ドイツに着くと、二人は週末などを楽しく過ごした。帰国後、盛岡高農教授。明治42年アルゼンチンにわたって大牧場を経営し、日本人アルゼンチン移住の先駆者となる。同国を訪れた島崎藤村は、寺島代理公使から伊藤を紹介され、「眼界は広く、話題は多く、文字通り談論風発の人」と評している(『巡礼』所収「I博士」)。伊藤の自伝『南米に農牧三十年』には新渡戸稲造、松本烝治、吉田熊次、三浦新七、有島武郎などが登場する。山形県河北町出身。
地球物理学者。山形中学時代は数学がよくできた(友人伊藤清蔵の話によると、自分は大変な音痴であったが、彼もまた音痴であった)。東京帝大卒業後、ドイツに留学しベルリンでは三浦ら山中同窓生5人とともに記念撮影をしたりしている。明治44年東北帝大理科大学教授。大正3年「岩石の力学的研究」で学士院賞。地震学に寄与した。著作に『地震学汎論』『二人行脚』など。『二人行脚』は、最晩年の三浦が病臥中態々山形から取り寄せて愛読した快著。山形県出身。
外交官。山形中学では三浦・結城と同期の親友。外交官試験にパスしたときには第一番に三浦に知らせている。中国、オーストリア、ロシア大使館勤務をへて外務省人事課長。フランス大使館参事官、ギリシャ特命全権大使(初代)、国際連盟協会理事を歴任した。ウィーン在勤時代は、ドイツ留学中の三浦と絵葉書で消息を確かめあっている。中学時代に奥山へあてた三浦書簡は、現在県立山形東高等学校が保存している。山形県東根市出身。
財政家。三浦とは山形中学の同期生で生涯の友となる。東京帝大卒業後、日本銀行にはいる。ニューヨーク勤務を終えて帰国するとき、結城はドイツ留学中の三浦を訪ね。ともに南独を旅行したりした。のち日銀大阪支店長を経て、安田保善社専務理事、安田銀行(のちの富士銀行)副頭取。昭和5年日本興業銀行総裁。昭和12年2月、蔵相。同年7月から19年3月まで日銀総裁をつとめた。このとき三浦を日銀最高顧問に迎え、日銀の充実を図った。山形県南陽市出身。
中国文学者。塩谷青山の長男。号は節山。中国近世の戯曲、小説を研究して東京帝大教授(父青山も東京帝大教授)。著作に『支那文学概論講話』、訳書に『国訳元曲選』など。祖父塩谷箕山は、その兄の宕陰とともに幕府の儒官である。宕陰は、老中首座水野忠邦につかえ、世子忠精の補導にもあたった。忠精は、のちの山形藩主。三浦家は水野家御用商として活躍する。こうした縁もあって留学中は、二人は親しく交際した。塩谷は、三浦没後、遺族に対し、その死を悼む漢詩(七言絶句)を贈った。三浦家の秘蔵品である。東京出身。
昭和期のジャーナリスト。東京商大(現一橋大)では三浦ゼミに席を置き、終生「三浦新七博士の門下」であることを誇りとした。東京朝日新聞社に入り、論説委員となる。昭和15年ヨーロッパ特派員としてドイツにわたるが、戦後の22年三浦博士の訃報に接するや、スイスのベルンから直ちに弔電を打つ。「巨匠の長逝、悲哀愈々切なり…」。23年論説主幹、のち常務、論説主幹を兼務。戦後日本のオピニオン・リーダーとして幅ひろく活動した。名著『ものの見方について』はベストセラー。福岡県出身。
公益財団法人三浦新七博士記念館
TEL 023-641-1212(内413)
FAX 023-624-8896
山形県山形市旅篭町2丁目3-25